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2021/04/05

差別はダメだし配慮も必要

差別はダメだし配慮も必要…。

 

まあ、その通りだとは思いますが、その一方で、これってそもそも差別なの?とか、ではどこまで配慮すればいいの?と感じるような話しもあるので、何となくしっくりこない話しでもありますよね。

 

例えば、先日の朝日新聞の「『はだいろ』表記のPB下着を回収」という記事もそうなのですが、子どもの頃から「肌色」という言葉に馴染んできた世代としては、これって差別や配慮の話し?と感じるわけです。

 

肌色という言葉が不適切と言われるようになったきっかけは、

 

・特定の色を肌色とすることは差別につながる

・肌の色はこれだという先入観や偏見を植え付けることになる

・少数派の人が居心地の悪さを感じるかもしれない

 

といった意見があったから…ということらしいのですが、そもそもの話し、肌色という言葉には、「日本人の肌の色に近い色」というくらいの意味しかないと思うのですよ。

 

なので、肌色と表現したら差別だとか偏見を植え付けるとか、それを聞いた人が気分を害するのではないかといったことを考えること自体が、少し考えすぎではないかと思うのですよね…

 

とは言うものの、結局、2000年前後から「肌色」という表現が少しずつ無くなり、代わりに「うすだいだい色」「うすオレンジ」「ペールオレンジ」「ベージュ」といった言葉が使われるようになってしまいましたが…。

 

でも、その一方で、今は「ヌードベージュ」だとか、「ナチュラルカラー」といった言葉も使われるようになっていますからね。肌色はダメなのに、ヌードベージュやナチュラルカラーはいいの?と思いますよ。

 

ヌードベージュという言葉には、肌色に近いベージュといったイメージがありますし、ナチュラルカラーという言葉には、自然な色というイメージのほかにも、普通の色とか平均的な色といったイメージがありますので、

 

肌色という言葉を使っても、ヌードベージュやナチュラルカラーという言葉を使っても、意味合いというか、その言葉から受ける印象は大して変わらないと思うのですよ。

 

世界にはいろいろな肌の色があるから特定の色を肌色と言ってはいけない…といった話しからスタートしたはずなのに、特定の色が標準色であるかのような言葉を使っているのって変ですよね?

 

これでは、「差別はしません」「配慮しています」ではなくて、「差別をしていないフリをしています」「配慮するフリをしています」ではないかと思いますし、

 

そんなことをいくらやっても意味がないというか、むしろ、差別をなくそう、配慮をしようといった活動に対して、逆効果になるような気もしますけどね。

 

また、最近は、肌色に加えて「美白」という言葉も使ってはいけないらしいので、こういった傾向を変えることはできないのかもしれませんが、本当にこれでいいのだろうかと思いますよ。

 

この勢いでいくと、いづれ「色白」とか「色黒」といった言葉も使えなくなりそうですし、「褐色の肌」とか「小麦色の肌」なんていう言葉も使えなくなるかもしれませんよね。

 

 

それに、もしかすると、「白黒つける」(物ごとを善か悪かにわける)といった言葉も使えなくなって、代わりに「善悪をつける」とか、単に「はっきりさせる」といった言葉が使われるようになっていくのかもしれません。

 

実際、ブラックリストとかホワイトリストといった言葉も、ブラックやホワイトがダメだということで、それぞれ、ブロックリスト、セーフリストと言い換えているところもあるそうですからね。

 

また、それからすると、人類を生物学的な区分であるネグロイド(黒人)、コーカソイド(白人)、モンゴロイド(黄人)に区別する…といったことも、ダメだということになるのではないかな…。

 

(そのうち、色はすべてカラーコードで言うようになったりして…)

 

しかしまあ、肌色とか美白とかの話しもそうですし、ジェンダーの話しとかもそうですが、何でも差別と結びつけて配慮を求めたり、差別と指摘されるのを恐れて過剰に配慮したりするのってどうなのでしょう?

 

何となくですけど、一部の人たちの都合で社会全体が動かされているような気がするのだけどなあ…。

 

例えば、たまにある話しに、車いすを利用されている方が公共交通機関から乗車拒否された…といった話しがありますが、こういった話しも、一方的に差別や配慮の話しにされてしまう傾向がありますよね?

 

もちろん、車いすを利用している方もそうでない方も同じように生活できる社会であるべきだ…といった話しは理解できますし、できればそういう社会であるべきだとも思いますよ。

 

ただ、何かしらのサービスをすれば当然コストがかかるわけですし、コストがかかる以上は予算や採算の話しになりますからね。たとえ必要なことであっても、すぐにやれることばかりではないと思うのですよ。

 

また、そうであるからこそ、やむを得ず利用を断っているという事情もあると思うので、差別や配慮の話し以前に、そういった話しをするべきではないかな…と思いますね。

 

それをしないままで「差別はダメだから配慮を求める」とやっていたら、社会のコストは増加する一方だと思いますし、いつしかそのコストは、配慮を求めている側の人たちの負担にもなってしまうような気がするので…。

 

やはり、公助や共助の前に、自助なのだろうと思います。

 

「他人にはなるべく迷惑をかけないようにしよう」とか、「まずは自分の力で何とかしてみよう」といったことは、日本人の美徳でもあると思うので、それはそれで大事にするべきではないかな…。

 

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