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2017/11/26

「鏡」と「仮我見」と「彼我実」(三つの「かがみ」の話し)

 

今日はいつもと少し違った道順で散歩をしたのですが、その途中、神社の脇を通ったのですよね。ふだんであれば、そのまま通り越してしまったと思うのですが、ふと「参拝しようか…」と思って立ち寄らせていただきました。

 

その神社に何か変わったところがあったわけでもなく、ごく普通の、どこにでもありそうな神社だったのですけどね。「何となく」ということはよくあることですが、なぜ「何となく」だったのかは、なかなか説明しづらいものです。

 

さて、そんな感じで参拝を済ませたのですが、神社の御神体というのは、鏡であることが多いですよね。今日立ち寄らせていただいた神社も、御神体は鏡でした。

 

祭壇中央の鏡は、姿形の無い神様が宿られる依代(よりしろ)として、神様の存在と威儀(作法にかなった立居振舞)を示しているわけですが、なぜ鏡なのか…には諸説あるようです。

 

例えば、「かがみ」から「が(我)」を除くと「かみ(神)」になるからとか、鏡を通して神様と向かい合うことで、清らかで誠実な心でお参りすることができるから…といった話しがありますね。

 

鏡以外にも、剣や勾玉(まがたま)などが御神体とされている神社もありますが、自分の姿が映し出されるという点で、鏡には特別な意味があるように感じます。

 

それに鏡は、ふだんの生活でも身支度をする際に使用するものですからね。そうしたことも、神社の御神体である鏡に特別な意味を感じる理由の一つになっているのかもしれません…。

 

 

と、このような「鏡」ですが、この「鏡」のことを「仮我見」や「彼我実」と表現する場合があるのをご存じでしょうか。どちらも当て字ではありますが、それぞれに深い意味があるのですよね。

 

例えば「仮我見」には、「仮の我を見る」といった意味があるようです。これは、鏡に映しだされた自分の姿は、仮の自分の姿を見ているに過ぎないものだ…ということですね。

 

本当の自分の姿は、自分では見えないことが多いという戒めでしょう。実際、その通りだと思います。

 

また、「彼我実」には、「彼が我の実際を見る」といった意味があるようです。これは、相手こそが自分の実際の姿(真実の姿)を見ているものだ…ということですね。

 

この「彼我実」も「仮我見」と同様、その通りではないかと思います。結局、自分ことについては、理解しているようで理解できていないところがあるということなのでしょう。

 

ふだんの生活の中で、「仮我見」や「彼我実」の持つ意味や重要性について認識しておくべきなのかもしれませんね。今日は、神社の御神体である「鏡」から、そうしたことを(改めて)教わったような気がしました。

 

自分では謙虚でいるつもりでも、ちょっとしたところで傲慢さが出ていることはありますからね。自分のことを棚に上げた自己中心的な振る舞い(言動)は、厳に慎むべきということでしょう。

 

 

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